病気になってからの タワゴト。言霊について思うこと。
今日は戯言。
この病気になってから、環境がガラッと変わってしまった。
感覚もガラッと変わってしまった。
わたしは都会が大好きだったし、いまも好きなところも沢山あるけど、自分にとって不自然なものは全く興味がなくなってしまった。
自分にとって、「不自然なもの」が以前はわからなかった。
ユタに言われた言葉。
「言葉に殺されるな」
あまりピンと来ていなかったけど、最近わかるようになった。確かに私が発した言葉は、すべて現実化している。良いことも悪いことも。
無意識に言った言葉さえも。
紆余曲折があって、わたしは4人で暮らしている。
結婚して所謂、普通の暮らしをするチャンスはいくらでもあった。結婚をしたこともある。
けれど、それに相応しい精神が育っていなかった。あの頃のわたしは、あまりにも幼かった。
辛い経験や苦い思い出はいつか時を経て、糧になる。いまは出逢ったひとたちに感謝の気持ちしかない。そして、傷つけてしまった人たちに申し訳ないという気持ち。でも、その経験があったからこそ、今があるという確信と信念。
病気になる、死ぬかもしれないという感覚はとても生に近い感覚だ。別にそれはみんないつ死ぬかなんてわからないわけで、同じ条件だ。あたりまえに慣れて、あたりまえに暮らしている。
けれど、立ち止まると全てが奇跡のようなことだと気がつく。やはり、完璧なタイミングで起きているとしか思えない。
袖振り合うも何かの縁という、たまたま、または偶然。そんなことが絡まりあって糸を紡いで、縁になる。
なんだかわからないけど、昔より感覚で物事の決断できるようになった今。
たまたま出逢ったひとたちと一緒に住んでいる。こんな大人になって。そして、病気と共に。
国籍も言葉も年齢さえも超えて。
それは無意識に私がいっていた言葉。
わたしは、広い世界がみたいといつもいった。それはいまも変わらない。自分の感覚が広がっていくような、魂が進化していくような、そんな血がふつふつと騒ぐような感覚。
いま、生きてるって叫べるような感覚。
いまはそれが実現している。ひとが想像できることは、きっといつか具現化されるのだろう。
いまは、社会のレールを外したような、とても奇妙な生活。ごちゃまぜの家だ。
言葉は通じ合わないし、目の色は違うし、文化は違うし、なによりも他人。
とはいえ、夫婦だって元は他人だな。
それでも通じ合うことがあって、ハッとすることが毎日ある。
そんな自分以外の誰かと出逢って、合わせ鏡のように相手がいることで自分を知って、成長しながら生きている。
それってすごいことだ。
こらからわたしの世界はどんなふうに広がっていくんだろう。
この病気はわたしをどこにつれていってくれるんだろう。
わからないけど、きっと必要なことを経験させてくれるに違いない。だから、目を背けずに受け入れていこう。
そして、わたしのいまがあるのはほんの小さな出来事や出逢ってくれた人のおかげだ。
だから、返していこう。自分の命が尽きるまで、わたしも誰かのほんの小さなエネルギーになりたい。偶然の出会いがいつもそうであるように。
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