余命宣告からの病気を忘れてみる生活。
血圧 最高 107
最低 68
やや風邪気味
ブログをだいぶさぼっていた。
この3ヶ月あまりH先生の外来で余命宣告を受けたのもあって、自分なりに考えた。
その後もう一度引き継ぎの先生にあう。
「あんなふうに余命みたいなことまでいわれて、なんだかわけもわからず、さあ手術の予約をって流れがどうも。。不信感を抱いてしまって。」
正直に言ってみる。
女性の若い先生だ。
「そうですよね。そう思われてるだろうなぁとお察ししました。わたしは納得いくまでお話ししますから。。」
ちょっと頼りなさそうな雰囲気はあるものの、人間的には好きな先生だ。
色々人生の節目なので考えたいといって、お話しをきいて2月に再び話そうという流れになった。
その間も、Bスポット治療とミサトールは続けた。そのおかげか周りがインフルになったり、寝込んでも風邪をひかなかった。
久しぶりに咳がでる今日。
T病院の検査観察。
はぁー。待ち時間、長いね。
T病院の先生は以前、普通に暮らしてくださいという。妊娠も大丈夫!ダンスも大丈夫!という。ごはんも何食べても大丈夫!
H先生とは真反対。
11月までは病気であることをすごく意識して生活してた。ストイックに。食べ物も気をつける。生活も気をつける。わたしは病気なんだと言い聞かせて、治すんだと。
それなりに効果はあったとおもう。
検査結果もよくなった時期があったから。
しかしながら、H先生の外来以降なんだかわからないけども、わたしの中で病気を忘れてみようとおもった。たぶん、扁桃腺摘出とステロイドやらないかぎり治らないし、◯年後には透析でいいの?透析しなかったら、そこで人生終わりでいいの?言われたからだと思う。君は自然には治らない。と。
わたしは決めつける先生が嫌いだ。
仮にそう思ったとしても、言い方を変えれば伝わり方も違う。
H先生は権威もあるし、症例ももっている。
正しい見解である確率は極めて高いだろう。
けれどわたしは人間の持つ潜在能力や自然治癒力は無限大だと思っている。
なんだか、しっくりこない医者に任せても治るものも治らなさそうだ。
わたしは遂に舞台に復帰することにした。
治ったのか?と言われると治ってないのだけれども。なんだか踊りたいと思ったから。
病気であることを忘れたように生活してみた。
すると、不思議な現象が起きた。
周りが全く病気にみえないと言いだした。以前よりも顔ツヤもいいとか、綺麗になったとか。おまけに、鉄剤まで飲んでた貧血もピタリと治ったし、朝の足のしびれもなくなった。
病は気からなのか??
よくわからないけども、とにかく元気になったことはたしかである。
酒も1.2杯は飲み、まえよりは好きなものを食べる。もちろん、塩分漬けみたいなのは避けるけども。
ダンスも再開した。まだ体力は追いつかないけど、以前よりもフラフラしなくなった。
病気になることで、まえよりも生き方は楽になった。余計なものを潔く諦められるからだ。
もちろん、治す。やりたいこともたくさんあるし。シンプルにみえてくる。
人間はゆらゆら揺れるいきものだから。
色々揺れながらも、自分にとって心地よい場所にいければいいのだとおもう。周りになんと言われようが、その人の人生はその人のものである。
その人が体験したことが全てである。
だから身体のこともその人にしかわからない感覚がかならず存在する。
誰かに言われたことで傷ついて、エネルギーが沈滞してしまってはもったいなさすぎる。
アンタの人生じゃない。
しかも、誰も自分のことなど完璧に理解できるはずがない。それが家族であっても、恋人であっても。
だから、自分で舵をとりたい。
この病気になったのは、自分であって自分の人生で起きたこと。その人生の小さな選択の数々がこの病気を引き起こしたこと。
過去を振り返る。過去を受け入れる。
今を受け入れる。自分を知る以外、治る方法はないとおもう。そうじゃなきゃ、いくらでも再発する可能性に満ちている。
根本から治すために、自分の無意識に行ってしまう癖に気づかなきゃ。
そして、病気であろうがなかろうが難病であろうが。
自分は治ると心の底から信じること。
いまはそれが一番治る方法だと思っている。
あとは信頼できるなら、その先生の治療を受けるもよし。
西洋医学の優れた検査機能。今の自分の状態を数値でみてとれる。向き合うことはやめない。
そんなことを考える血液検査と検尿の検査を待つ時間。
結果はどうかな?
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